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札幌低地帯と勇払原野の間に位置する千歳は古来から太平洋岸と日本海岸をつなぐ交通の要路で、江戸時代には千歳越え(勇払越え)として知られています。
千歳川やその支流であるユカンボシ川、 祝梅川などの流域には 人々の生活の痕跡がみられ、 北海道最古の遺跡の一つ旧石器時代の祝梅三角山遺跡やキウス周堤墓群、 美沢川流域の遺跡群など北海道の先史時代を語る上で欠くことのできない重要な遺跡が多く存在します。
美々4遺跡の縄文晩期の動物形土製品、 ママチ遺跡の縄文晩期の土製仮面は国の重要文化財に指定されています。
弁財天御厨子
(「シコツ」を「千歳」と改めた地名の由来が記されている)千歳地方一帯を指す 「シコツ」 という名称が文献に最初に現れるのは万治3 (1660) 年の 『福山秘府』 といわれます。 その後シャクシャイン蜂起、将軍や大名が珍重した鷹の捕獲地として 「志古津」 (シコツ)が記録に登場します。
鮭を中心とする諸物産のアイヌとの交易場所としての十六場所が知られます。
箱舘奉行羽太正養
(『北海道大百科事典』より)江戸時代にはシコツ場所、 のちにユウフツ場所に編入され、 千歳市街には千歳川会所が置かれていました。
文化2 (1805) 年、 響きの悪い「シコツ川」を当時多数生息していた鶴にちなみ箱舘奉行羽太正養が「千とせ河」と改名しました。
明治2(1869)年、 国郡設置となり、 胆振国千歳郡に属し、 同年土佐高知藩の支配地を経て、同5年開拓使の直轄になります。 同13年に苫小牧村の勇払外5郡郡役所の管轄下となりました。
最後の千歳越えをした小樽ホタテ船団
(大正6年10月)
千歳越えで知られた内陸交通路は同6年に開通した札幌本道の一部となり、 千歳は街道の宿場町として栄えます。
同17年には山口県から農民団体が入植します。 同20年頃千歳川下流域が千歳原野として120万坪、 漁川と長都沼の間が長都原野として200万坪がそれぞれ殖民地選定され、 同27年に単独移民188団体、 団結移民2団体が入植しました。 同29年ケネフチ川流域の189万坪が殖民地に選定され、 開拓が進展されていきました。
同21年、 アメリカの視察を終え鮭の産卵事業の適地を探していた北海道庁の伊藤一隆は、 現在孵化場のある場所に湧水を発見し孵化事業を開始します。 インディアン水車はアメリカ視察により導入されました。
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