献納機
海軍報国号飛行機「千歳号」



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守屋 憲治
千歳市史編さん委員会
専門部員
はじめに
1.報国号とは

2.千歳号の存在
3.報国-2481(千歳號)
4.千歳号の機種
5.献納の背景
※資料:北海道からの献納機リスト
※参考文献・協力

                  




はじめに

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 昭和44年、開庁90年を記念して『千歳市史』が更科源蔵の手によって編纂された。飛行場の章、海軍航空所(廠)の節に次の記述がある。

 やがて海軍航空所(廠)も設立され、そして無謀と史家の批判を受ける太平洋戦争に突入した。翌昭和十七年には町制の行事が、南方のはなやかな戦果と一緒に町全体をゆすぶって行われた。町民はその感激を何かによって表現したく、献納機千歳号をつくって報国の赤誠を現そうとした。

 『千歳市史』のこの記述は、戦時中に千歳町の人々の献金によって軍に飛行機が献納されたということが判るだけである。献納先が陸軍で愛国号だったのか、または海軍の報国号だったのか、さらに機種と名称は何だったのかが不明である。ただ、千歳には昭和14年10月に千歳海軍航空隊が置かれ、そのことによって人口が増え、17年に町制を施行したことから献納先は海軍で報国号だったのだろうということが類推されるだけである。報国とは国の恩に報いるの意である。
 昭和58年に開庁百年を記念して長見義三が編纂した『増補千歳市史』にはこれに類する記述はない。



1.報国号とは

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 昭和59年、報国号研究の第一人者である横井忠俊が「報国号海軍機の全容を追う‐その中間報告‐」として、追補を含め3回にわたり『航空情報』誌に調査の中間報告を掲載した。中間報告の中から、報国号に関する特徴的な記述を抜粋すると次のとおりである。

 報国号と名づけられた飛行機は昭和七年(第一次上海事変当時)から昭和二十年(太平洋戦争終戦時)まで、十三年の間に約一七〇〇〜一八〇〇機(推定)にのぼる多数機が、広く国民各層から海軍に献納された。
 ひとくちに“国民各層”といっても、それは、幼きは小学生の小遣いを倹約して募金したものから、齢い高きは、高齢者有志の団体にまで及び、年齢職業を問わない不特定多数の人々の零細な醵金を糾合したものから、一個人で実に数機を献納した事例まであったのである。そのいずれもが、国を愛し、海軍航空を思う、国民赤誠の真心の結晶であった。


 さらに、毎日新聞社の『別冊一億人の昭和史 日本航空史』にも、航空を語る時、欠かすことができない献納機について5頁にわたり写真、報国号飛行機命名式次第を掲載している。
献納機〈愛国機・報国機〉として次の解説がある。

 満州・上海両事変で陸海軍機の活躍が新聞に報道され国民の関心は空へ向けられていった 新聞社も国防献金を募った 陸軍でははじめ飛行機を「義勇号」と命名するつもりでいたが(略)愛国号と命名し 昭和七年一月十日代々木練兵場でユンカースK37とドルニエメルクール輸送機に愛国(あいこく.)1号 2号と命名したのが始まりであるこのことは全国民に大きな刺激となり兜町の株屋 小布施新三郎氏が(略)三機を献納して個人献納のトップをきった当時戦闘機七万円 偵察機八万円であった 海軍機にも献納が行われ「報国号」となったが 新聞社への献金でつくったものには「愛国○○号」「全日本号」という名を付けられた

 「全日本号」とは、昭和12年に朝日新聞の提唱で始まった全国規模の軍用機献納運動で報国第91号(第1全日本号)が初号機。海軍へは敗戦までに、愛国号と同数の175機が献納されたという。
愛国・報国号といった国防献金の対象は飛行機ばかりではなく銃砲、トラック、戦車、装甲車のほか艦船にまで及んだ。
 昭和7年から国防献金である献納機運動が始まった。これは、満州事変、上海事変の勃発と、ワシントン条約とこれを基礎とするロンドン条約が日本の軍備制限に伴う対米劣勢危機感を増大させたことに起因すると思われる。昭和9年‐ワシントン軍縮条約破棄の通告、11年‐ロンドン軍縮会議脱退の通告によって12年1月1日以降海軍は軍艦建造に制限がなくなる。
 これに先立ち西暦1935(昭和10)年と36年は「来るべき三五、三六年の非常時」と喧伝され国民にとって自国の安全に危機感を抱かせる時代であったといえる。国防献金にはこのような背景があることを忘れてはいけない。
 昭和9年に完成した千歳飛行場を時事新報札幌支局長の石田篤郎は10月27日付朝刊において、「来るべき三五、三六年の非常時」に絡め次のように伝えた。

“不況に喘ぎながらもこの国防精神 村民の汗の結晶‐千歳飛行場遂ひに完成”
 不況と凶作にあえぐ北海道にも国防の赤誠にもゆる美談がある。札幌市郊外千歳村では来るべき三十五、三十六年の非常時を前にして北海道に防空飛行隊の根拠地たるべき土地のないことを甚だ心細い訳だと「いざ鎌倉」の際はいつでも根拠地となり使用し得るようにと(略)千歳飛行場の建設に着手したが、この程遂に完成を見、二十八日午前十時から同飛行場の竣工式を挙行することとなった。而して軍部に於いても凶作不況にあえぐ地方にありながらかうした心強い国防後援のあることに多大の感謝を払っている。



2.千歳号の存在

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 横井忠俊の「報国号海軍機の全容を追う」には横井ノートと呼ばれる報国番号不祥の72機を加え793機の報国号について、番号・名称・機種・命名式(献納年月日)・献納者の一覧が掲載されていたが、千歳町民が献納したと思われる千歳を冠した飛行機はなかった。また、陸海軍の献納機について調査を続行している横川裕一のweb『陸軍愛国号献納調査』(以下「横川ノート」)には、1333機の愛国号が掲載され、付録としての報国号調査がある。報国号については横井ノートよりも200機以上も多い1010機が記載されているが、横井ノートと同じく、千歳号と思われる飛行機についての記載はない。
 つまり、国内に流布されている海軍報国号調査において、千歳号についての解明は昭和44年刊行の『千歳市史』から全く進んでいなかったことになる。
 海軍報国号に関する資料があまりにも残されていないことについて、終戦時海軍省に保管されていた資料によって、献納者が戦争協力者として連合軍から追及され、不利益を被ることがあってはならないと焼却処分にされたともいわれるが定かではない。また、戦後に醸成された軍隊への拒否反応と、献金によって戦争に協力したと思われたくないという感情から地域においても多くの人の記憶から献納機が抹殺されようとしていたことによるのだろうか。
 このことを端的に示す事例を挙げたい。敗戦から4年後の昭和24年に初の町史として編纂された『開町70周年記念 躍進千歳の姿』の巻頭にある詳細な年表に海軍の文字を見出すことはできない。本文中においては、第5章将来に構想 2、国際空港の実現に

 又最初昭和二年から陸軍の飛行場として使用して戴くべく一生懸命運動しほぼ確定した頃たまたま大湊から海軍の須田少佐が来町現地をみてこれはよい処だ海軍が使う事とする‐と言って早速帰ってまもなく海軍に決定してしまった。忙しい思いをしたが結局昭和十四年海軍航空基地として使用されたのである。

とあるのみで、支那事変を含む東アジア太平洋戦争(大東亜戦争)下の飛行場に関する記述はもとより千歳海軍航空隊、第2・3基地に関する記述が全くなく、表現はまさに他人事である。
 千歳町役場においても敗戦時に連合軍からの追求を恐れ、軍に関与したことが判る書類を大量に焼却処分にしたという。今となっては笑い話であるが、当時としてはやむをえなかったことであろう。後知恵での判断は禁物であるが、このことが千歳の近代史に不明の点を多くしていると言わざるを得ない。



3.報国-2481(千歳號)

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 平成8年、千歳の郷土史研究会である千歳を知る会の世話人会の席上、長都で酪農業を営む木谷稔が「珍しい写真が見つかった」といって、一枚のセピア色に変色した写真(以下「絵はがき」)を執筆者に差し出した。長らく探していた海軍報国号「千歳号」の絵はがきだった。
海軍報国号飛行機「千歳号」絵はがき

 絵はがきは、85_×135_と現在のはがきと比べると一回りほど小さい。絵はがきの飛行機は99式艦上爆撃機(以下「99艦爆」)である。実機の場合、胴体の日の丸後方に報国番号と名称が記載されているが、絵はがきでは両主翼下面に「報國‐2481(千歳號)」、説明として「報國第二四八一號(千歳號)〔艦上爆撃機〕海軍省」と記されている。99艦爆は、零式艦上戦闘機(制空戦闘機、以下「零戦」)、97式艦上攻撃機(魚雷攻撃・水平爆撃機、以下「97艦攻」)とともに海軍の代表的な艦載機、単発小型で比較的安価なことから数多くの機体が献納されている。
 報国番号は明瞭だが写真に加筆されていることがわかる。開戦前、神式に則った報国号飛行機命名式と飛行作業と呼ばれる展示飛行が献納者居住地最寄りの飛行場で華やかに行われていたが、開戦後は実機の展示飛行はなく全紙大の献納写真額を掲げての簡素なものになっていた。絵はがきは献納写真を縮小したもので、飛行機を献納した道内の町村の例によると千歳の場合も役場で印刷し全戸に配布したものと思われる。
 艦爆とは、航空母艦から飛び立つ急降下爆撃機のことである。99艦爆は昭和14年から19年にかけて愛知航空機によって量産され、搭載爆弾は250`だった。千歳号はプロペラスピナーがない11型で、17年に生産が中止されている機種である。
千歳空の報国号機「S-171」
戦闘機隊渡辺秀夫3飛曹の乗機 Sの部隊標識は昭和15年11月から17年10月までの間使用した 報国番号等不詳(零戦21型)   原図:田中重明

 東アジア太平洋戦争においては、開戦劈頭のハワイ海戦をはじめインド洋海戦、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、第2次ソロモン海海戦、南太平洋海戦で活躍した。特にインド洋海戦においては操縦士の神業的な技量の高さから、英空母ハーミスを急降下爆撃の命中率80l以上で撃沈したことで知られる。
 敗戦間際においては特攻機にも投入された。最高速度が時速400`に届かない鈍足の艦爆では搭乗員の死亡率も高く「99棺箱」と揶揄された。
 千歳号の献納時期であるが、番号は防諜上、順番どおりではなかったという。横井ノート、横川ノートによれば報国番号2400番台の判明機の全てが昭和19年の献納であることから千歳号の献納時期は19年と類推できる。
 web高岡市立博物館の『学芸ノート(第6回)』に学芸員仁ヶ竹亮介が記した「海軍報国号献納飛行機関係資料」に興味深い記述がある。現在の日本晴酒造合資会社である荒野商店7代目・当主荒野権四郎が、昭和19年に酒蔵を処分・廃業してまで報国第2866号荒野日本晴号を献納した時の資料である。日本晴とは日清戦争の大勝を記念した酒銘である。

一、報国号飛行機命名式記念写真 (略)これには、当時の物資不足がうかがえる、質の悪い紙で作られた袋が付属しています。表には「昭和十九年/(旭日旗)報国号飛行機命名式記念写真/海軍省」と印刷されています。(略)
二、飛行機献納申出書(控) (略)昭和十九年二月付けで海軍大臣・嶋田繁太郎(1883〜1976)に宛てられています。文面は「一、艦上爆撃機壱機/此ノ代価金 拾万円也/右ノ通リ献金致度候ニ付御採納相成度候也」とあります。
三、報国号飛行機命名式に関する依頼書 (略)それによると、命名式は海軍省の主催で、同年同月二十七日十三時三十分より高岡市博労町国民学校(現高岡市立博労小学校)において開催することが決定したので、それを通達しています(雨天の際は同校講堂において開催予定)。


 この記述から判断するに、千歳号にも絵はがきを入れる袋が付随したと思われること、献納額は10万円程度だったこと、さらに、海軍航空基地所在地として、命名式が千歳国民学校において第12航空艦隊司令出席のもと開催された可能性があることを示唆している。道内においても命名式が国民学校で行なわれた例がある。なお、日本晴酒造は戦後、再興された


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4.千歳号の機種

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 開戦後、艦爆の献納機種は99式以外見当たらない。艦爆には、99式のほかに、航空技術廠「彗星」と艦爆兼用の愛知艦攻「流星改」がある。
 彗星は500`の爆弾を胴体内の弾庫に収納する液冷エンジン装着の高速艦爆で量産は愛知で行われた。最高速度は時速550`を超えた。量産は昭和17年7月から行われ、二式艦上偵察機として先行採用されている。18年には爆撃隊が編成され、艦爆としては18年12月に「艦上爆撃機彗星11型」として制式採用された。
 千歳号の報国号献納時期については、先に2400番台の判明機の全てが昭和19年の献納であることから報国第2481号・千歳号についても19年と類推できる蓋然性が高いとした。横井忠俊によると「献納機種の変更はなかった。彗星については全く判っていない」という。このようなことから、献納絵はがきが防諜上の理由から99艦爆であって、実際は彗星であった可能性も捨てきれない。
 千歳の隣、恵庭にも報国号の記録があった。恵庭昭和史研究会が市民からの聞き書きをまとめた『百年一〇〇話‐恵庭の風になった人々‐』に収録されている「幻の艦上爆撃機 恵庭号は存在したか」に次の文章がある。

 目標額や集められた金額等、何も判っていない。けれどその年のうちに、「飛行機が完成した」と連絡が入ったというのだから、一機分にあたる、かなりの金額であったことは間違いあるまい。(略)足立彦市は、その写真を所有していた。「献納金への返礼として受け取ったのか、人から譲られたりしたものなのか、入手経路は定かでないんだよ。父の忠六の遺品の中に残されていたものなんだ」
 そう説明しながら示した写真は驚くほど鮮明で、細やかな文字も難なく読み取ることができる。
 恵庭村民の献金で作られた飛行機は、機体の羽根の部分に報国‐三六三三号(恵庭号)≠ニ記され、艦上爆撃機・海軍省と、下方に説明書きがある。かたちは、零戦と呼ばれた零式艦上戦闘機≠ニよく似ていた。恵庭号がこの零戦と同じようにつくられたのだとしたら、その活躍ぶりは、目を見張るものだったに違いない。〔文責 掛水美枝子〕


 恵庭号の絵はがきは、千歳号や資料に掲げたの静内号、滝川町号と同一の写真に報国番号を加筆したもので機種は99艦爆である。零戦との最も大きな違いは、零戦の引込脚に対し99艦爆は固定脚の点にある。飛行機に興味のないものにとっては両機種ともに単発単葉で同じく見えるのはいたしかたないことであろう。軽飛行機全般をセスナというのと同じである。





5.献納の背景

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 国民精神総動員運動が開始されたのは昭和12年だった。翌年4月には、「戦時ニ際シ国防目的達成ノ為、国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様、人的及物的資源ヲ統制運用スル」権限を政府に付与する国家総動員法が公布された。国民精神総動員運動を底辺で支える組織として部落会や町内会・隣保班が整備された。町会は町常会、町会常会、部常会、班常会の単位で毎月定例会が開かれ、貯蓄、増産、防空など戦力の強化と戦時生活の実践が徹底事項として取り上げられた。
 国内では東アジア太平洋戦争宣戦の大詔を待たずして支那事変のため戦時態勢と化し、国民は全て大政翼賛という名のもとに総動員させられていた。千歳においても昭和16年2月11日に町内会、部落会を設置し従来の区を廃止、毎月村常会を開催した。昭和18年の千歳町事務報告書には、大政翼賛運動として「飛行機献納等ノ成績ヲ見ルモ良好ニシテ・・・」とあり、常会では献納実践が徹底事項として取り上げられたことが判る。
 戦時下の昭和17年、大政翼賛会と新聞社は「大東亜戦争・国民決意の標語」を募集した。32万通余りの応募があった。「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは努力が足らぬ」などのスローガンが不自由を克服するために全国で唱えられた。そして、戦争の遂行に対して協力が不十分な者は非国民と呼ばれかねない状況だった。
 ラジオからは勇壮な行進曲のあとに凱歌を上げる戦果が、そして、「海ゆかば」のあとには玉砕など悲壮な戦況を報じる大本営発表が流れた。発表は欺瞞と虚偽に満ちてはいたが、完全に現実から乖離したものではなかったという。発表を聴いた大部分の国民は、誰しもが日本の勝利を信じ、真剣に銃後の守りについていた。飛行機の献納が常会の徹底事項でなくても、献金に反対する者など居ようはずもなかった。海軍の航空基地があったことで、町制を敷く事ができた千歳のような田舎であればあるほど、更科源蔵がいうように報国の赤誠を現そうと献金には積極的だったと考えられる。
 献金の額は、荒野日本晴号などと同額の10万円と思われる。この額は企業物価戦前基準指数からすると現在の3千万円ほどという。しかし、現用の日本自衛隊機の中で最も小型な単発機である海上自衛隊の初等練習機T‐5は、量産機ではないが一機2億8千万円であることを考えると安易な物価比較はできない。
 町制施行時、昭和17年の全世帯数は2250、10万円を世帯数で均すと一世帯あたり44円となる。献金額は任意であり、法人で3分の1程度を集め、残りを個人としたという記録もほかの町に残っている。しかし、当時、米10`が3円25銭(14年)、教員の初任給が55円(15年)だったことを勘案すると、一日1銭の貯金、あるいは月の特定日の全収入を献金することのいずれにしても庶民にとっての献金額は大金で、まさに爪に火を灯す思いで成し得た報国の赤誠だった。
零式艦上戦闘機
 報国号として最も献納機数の多い機種 本機は昭和39年にグァム島から帰還、復元後は航空自衛隊浜松南基地で保管、平成11年からは浜松広報館で展示されている 型式は52型甲(撮影/昭和60年)


         ●  ●  ●

 市史の記載もピンポイントのような扱いの海軍報国号(千歳号)である。横井忠俊の言葉を借りるならば、戦時下において国民と最も深く関わり合い、強い絆で結ばれていたはずの献納機の全容が明らかにされなかったことは、日本航空史の大きなブランクであるといえる。
 千歳においても埋もれていた一枚の絵はがきから千歳号の機種に加え番号もが明らかになった。本稿において千歳号を公にしたことで、千歳航空史の一つのブランクが埋められたことの意義は大きいと思慮する。                                      (文中敬称略)






  《資 料》
  北海道からの海軍報国号飛行機献納リスト(判明分)


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 「T」は横井ノート、「Y」は横川ノート、「K」は執筆者ノートを示す/献納者・献納額省略/リスト掲出はノート先出し優先
 @命名式‐宮内博・桜庭一郎資料(T)A展示飛行作業は千歳空北海道出身操縦士‐桜庭一郎資料(T)B同時に陸軍愛国号二式単戦四機献納、9機計75万円、番号は推定、大政翼賛会森支部C同時に陸軍愛国号戦闘機献納、献納年‐疑問 D三井砂川鉱業所、感謝状のみE機種は推定、(?)F渡島管内町村合同献納機G推定・報国番号2902零戦‐『倶知安町百年史』によると2901と同時献納H献納者‐倶知安町石塚勝治I名称推定J献納者-岩内町広部誠一/献納機種名(零戦等)が判明しているものは絵はがきなどで確認
報国番号 名  称 機  種 献納年月日(命名式会場) 備考
57 北海道号 90-2水偵 9・ 5/5(小樽)
195 北千島水産号 96艦戦
235 第2北海道号 97艦攻 13・10/22(札幌飛行場) T@
236 第3北海道号 97艦攻 13・10/22(札幌飛行場) T@
309 第4北海道号 96艦戦 14・11/ 4(札幌飛行場) TA
310 第5北海道号 96艦戦 14・11/ 4(札幌飛行場) TA
502 第1愛婦北海道号 零 戦 16・ 9/20(羽田飛行場)
503 第2愛婦北海道号 零 戦 16・ 9/20(羽田飛行場)
1524 宗谷号 零 戦
2052 第2美幌号 零 戦 19
2195 北海道下川村号 零 戦 18
2197 北海道美深町号 零 戦 18
2206 北海道第1網走号 零 戦
2209 北海道第2函館号 零 戦 18
2296 江部乙屯田号 零 戦 18
2480 倶知安号 99艦爆 19・6/24
2481 千歳号 99艦爆 19
2615 北海道第1森号 零 戦 19・2 KB
2616 北海道第2森号 零 戦 19・2 KB
2617 北海道第3森号 零 戦 19・2 KB
2618 北海道第4森号 零 戦 19・2
2619 北海道第5森号 零 戦 19・2 KB
2621 留萌町号 零 戦
2878 浅野セメント号 零 戦 16 KC
2901 古平号 零 戦 19・3/4(古平国民学校)
2905 北海道第2八雲号 零 戦
2914 上磯号 零 戦 19 KC
2921 西興部号 零 戦 18
3294 北海道砂川町号 零 戦 19・4
3299 後志泊号 零 戦 19・4
3401 稚内号 零 戦
3404 静内号 99艦爆
3416 北海道檜山利別号 零 戦 19・4/11(今金国民学校)
3424 滝川町号 99艦爆
3633 恵庭号 99艦爆
5560 三井砂川産報号 19・8 KD
・・ 美幌号 93中練 17(美幌航空基地) KE
・・ 渡島号 艦 戦 18 KF
・・ 第2古平号 艦 戦 19・4 KG
・・ 喜茂別号 艦 戦 19・4
・・ 京極村号 艦 爆 19・4
・・ 小樽市高島号 艦 戦 19・4
・・ 石塚号 戦闘機 KH
・・ 第1岩内号 19・2 KI
・・ 第2岩内号 19・2 KI
・・ ホイサン号 19・9 KJ


参考文献・協力
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●参考文献

  「報国号海軍機の全容を追う‐その中間報告‐」
  『航空情報』2、3、12月号

  
 横井 忠俊 昭和59(1984)年  酣燈社

  web『陸軍愛国号献納機調査』
   横川 裕一 
  
  web「海軍報国号献納飛行機関係資料」
   仁ヶ竹亮介 平成18(2006)年 
  
  『学芸ノート第6回』
   高岡市立博物館
 
  『航空情報別冊 太平洋戦争 日本海軍機』
   酣燈社 昭和47(1972)年 
 
  『別冊一億人の昭和史 日本航空史』
   毎日新聞社 昭和54(1979)年 
  
  『20世紀年表』
   毎日新聞社 平成9(1997)年 
 
  「幻の艦上爆撃機 恵庭号は存在したか」
   掛水美枝子 平成9(1997)年 
 
  『百年一〇〇話』 恵庭昭和史研究会

  『自衛隊装備年鑑2007‐2008』
   朝雲新聞社 平成19(2007)年 
  
  『開町70周年記念 躍進千歳の姿』
   千歳市 昭和24(1949)年
  
  『千歳市史』 昭和44(1969)年 

  『増補千歳市史』 昭和58(1983)年 

  本稿関係北海道内市町村『史』

●協 力

  横井 忠俊
  横川 裕一
  木谷 稔
  富山県高岡市教育委員会
  倶知安町
  岩内町
  古平町
  下川町



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