明治・大正の千歳を支えた薪炭業


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大谷 敏三
総務部主幹
(市史編さん担当)
1.江戸時代
2.官林の開放
山神の碑
4.泉 沢

学 田
6.炭焼きと学校
7.300万坪
8.戦 中
9.焼き子
10.搬 送
11まとめ
※参考文献

                  




はじめに

 千歳市街から西方に約5`のところに千歳川の支流内別川がある。わずか2・5`程の清冽な流れの川である。水源では伏流してきた水が、毎分90dほどが音をたてて湧水している。水質が良く、水量が多いことから千歳市民の飲料水として利用されている。千歳市の水道事業のため合流点近くに堰が造られ、サケの遡上を見ることができなくなった。
 昭和38(1963)年、内別川下流右岸で2振りの蕨手刀が発見された。これを契機に早稲田大学の桜井清彦らによってなされた発掘調査では、8世紀の東北地方の北半の金属器をともなう28基の墓が発見された。副葬品に見られる金属製品は、蕨手刀のほか横刀、刀子、環など23点におよぶ。移入されたこれらの製品は、東北地方北部の末期古墳の副葬品との類似性が強い。
 昭和40年代後半この土地の所有者がこの川の流域にゴルフ場建設を計画したことから、千歳市教育委員会は50年から3か年にわたって埋蔵文化財の分布調査を実施した。
 この調査で、内別川から縄文早期からアイヌ文化期にいたる多くの遺跡が発見された。この調査結果にもとづき、昭和54年に流域を含む146fが国の史跡に指定され、内別川流域は保全されることになった。
 調査では当初予定していない、苗別川流域から北信濃、ウサクマイ台地にいたる沢沿いや台地上から近代の多くの炭窯跡が発見された。平地に炭窯、土取りしたと思われる窪みなどが残されていた。
 発見された炭窯は角窯(図‐1)と丸窯(図‐2)の2つの形態があった。森林に覆われた広い調査地域の中で、調査は必ずしも充分なものでなかったが、それでも角窯43基、丸窯4基の計47基が確認された※1 図‐3)。

図-1 炭窯実測図(角窯)
 図-2 炭窯実測図(丸窯)
















図-3 内別川流域の炭窯の分布

 沢に沿って幅2b程の林道が発見されたが、これは製炭材や薪炭の運搬のために造られたものであろう。それらの炭窯跡の数は、薪炭作業に従事した人々の存在を想起させるに充分なものであった。

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※1 西連寺健 昭和58(1978)年 「第四節 産業史」『苗別川流域における考古学的調査』千歳市文化財調査報告書T 113〜118頁





1.江戸時代

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 仙台藩の玉虫忠義が勇払から千歳を通ったのは、安政4(1857)年の9月6日であり、その記録『入北記』(※2)に、途中の今の植苗あたりに炭焼きが住んで、窯二か所ばかりがあったと記している。勇払勤番所や会所などの需要のためであったらしい。
 千歳地方でも炭が焼かれていたかどうか不明であるが、千歳川会所使用の薪について、勇払場所支配人山田屋仁右衛門の「勇武津御場所諸願諸届留」に次の願書がある。

乍恐以書付奉願上候
一 薪 千二百石
  内千間 ユウフツ会所並漁場焚用分
  弐百間 千年川会所焚用分
  右ハ明戌年焚用分アヘラ(筆者注「安平」)並千年川山 ニオイテ伐出シ申渡シ奉存候間何卒格別之以御慈悲願之通 被仰付被成下度願上候以上

ユウフツ御場所
    支配人
(文久元年)
 酉十一月       元三郎
 ユウフツ
 御詰会所


 上のうち漁場焚用とあるのは、タルマエ沿岸(苫小牧錦岡)の鰯漁場の盛期でもあり、鰯を煮て、油と糟を採るための燃料が大部分であったろう。
 千歳会所焚用の薪は千歳川山から伐り出されたようであるが、千歳川山とは、会所に至近の山であったろうから、現在の青葉公園や航空自衛隊千歳基地のあたりの山が考えられる。


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※2 玉虫忠義玉虫忠義 安政四(一八五七)年 『入北記』 安政四(一八五七)年 『入北記』






2.官林の開放

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千歳で早くから木炭を消費していたことは想像されるが、記録としては、明治14年明治天皇ご巡幸の際、用意した木炭があった。
 明治30年、「北海道国有未開地処分法」により、開発に成功すれば土地取得は無償で、制限面積も農耕地で150万坪(500f)、牧畜地で250万坪(833f)と大きく拡大された。しかも立ち木も無償付与だった(※3)
 千歳の製炭のはじまりは定かでないが、明治30年に御料林の造材が始まったと言われるから、造材の跡地に製炭の専業者の入るのも明治30年代の初期と考えられる。札幌という消費地に近く、千歳から木炭を運んでいっても価格が引き合うようになったのであろう。
 この頃からドロノキを原料とするマッチの軸工場、明治30年には小阪軸木製造工場、31年には寺尾軸木製造所、32年に扇桝軸木製造所などがママチ川周辺に相次いで建設されている。しかし、最盛期は明治34年で材料となるドロノキが伐りつくされると同時に39年閉鎖せざるをえなかった。
 長都に入植した戸田甚吉の追憶記によると、明治34年、開拓の邪魔ものになっていた森林を、それまで切り倒し、ただ焼き捨てていたが、冬場の仕事にはじめて炭に焼いて札幌へ馬で運び、現金収入を得たという。
 また、この年、近唐(現在の協和)に入植していた人々も、カシワの渋皮からタンニンエキスを採ったあとの木を炭に焼きはじめたという。
 アウサリ(現在の駒里)でも、入植者たちは明治35年頃から、東京の桜組が早来にカシワの渋皮からタンニンエキスを製造する製渋工場をつくったが、渋皮を採ったあとのカシワを炭に焼いた(※4)。製法も窯から焼いた木を出し、それに土をかけて炭にする消し炭に似た方法であった。
 明治36年の新保鉄蔵の「西田士蔵止宿泊」の中に、木炭が取り扱われ、1俵14銭と記されている。
 明治36年、祝梅に入植した荒川浅治も開拓のかたわらその後炭を焼きはじめた。
 河野常吉の聞書「胆振国」(※5)によれば、千歳の製炭業は明治時代、その盛況が過ぎ、原木が減少してくると、山林の解除があり、どうやら業が継続できた。以前には作業を簡単にするため大木を丸切りにしてそのまま、かま入れにして焼いたが、これは炭量の歩どまりが悪く不経済であった。樹木が少なくなってからは、丸太を小割にして焼くように変わった。
 「千歳外三ヶ村沿革史」(※6)によると、明治39年の木炭生産額は120万貫であった。
 この年の炭窯の数は不明であるが、千歳外三村の明治41年度における村費賦課額中「炭窯割」の予算は、炭窯数200基、1基につき1円20銭の計240円となっている。明治40年前後には200基前後の炭窯が経営されていたと見られる。
 千歳においての製炭の最盛期は第1次世界大戦頃である。大正3年、道は炭窯補助規定をつくり、木炭改良講習会を開くなど農家の副業として製炭を奨励している。千歳では、第1回講習会を大正3年11月2日から12月18日まで、翌年にはアウサリで11月7日から12月4日まで行われている。窯も改良され、楢崎式というのが多く造られた。
 大正の初め頃の木炭1俵の値段は、山元でナラ炭が15銭程度にしかならなかったが、大戦が終わった頃には

 一万坪ヨリ炭凡二万貫(即二千俵)ヲ出スベシ、炭一俵ニ対スル立木代凡五十銭余ニテ、二千俵二対シ金千円ナリ。大抵二竃ヲ築キ一ヶ年二焚キ尽スベシ、山元ニテ楢一俵一円十銭、イタヤ一俵一円五十銭に売ルベシ、平均一円廿銭トセハ、総炭代二千四百円ニテ、立木千円ヲ差引、千四百円ノ収入ナリ

との状況であった(※7)

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※3 柳沢文敬 平成17(2005)年 「緑の北海道開拓」23頁
※4 明治35年5月、東京の桜組郷士会社が安平村早来に日本一の規模の製渋工場の建設に着手、翌36年8月、製皮用のタンニンエキス製造を開始した。その原料であるカシワの渋皮を、早来をはじめ、千歳、恵庭などから求め盛業をつづけた。千歳村ではアウサリ、コムカラなどから原料が集められた。桜組はまたアウサリ地区に牧場を開いた。日露戦争後タンニンエキスの需要が減少した。明治40年4月、工場はそのまま日皮革株式会社が桜組みから引きつぎ、工場名を同社の早来製渋所と改称した。しかし、周辺に原料が尽きると早来の工場を閉鎖し、十勝国池田に工場を新設し移転、44年11月製造を開始した。桜組牧場は、大正9年、室蘭の利根五郎兵衛がこれを買い、小分して売った。
※5 河野常吉 大正11(1922)年 聞書『胆振国』
※6 千歳村 明治39(1906)年 『千歳外三ヶ村沿革史』
※7 更科源蔵 昭和44(1969)年8月 「木炭」『千歳市史』470〜473頁






3.「山神」の碑

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長都神社境内に現存する「山神」の碑は、明治38年11月15日となっている。これは、長都地区に入っていた専業製炭者、その焼き子などの関係者が作業の安全を祈って建てたものである。この碑の台石には次の24人の名が刻まれ、当時の盛業を偲ばせる(写真‐1)。

写真-1 「山神」の碑



正面
発起人 天野兵太郎 大川原春吉 
    藤原仁太良 青田甚吉
    白石勝太良 
新築請負 小田部喜一郎
向って右側
  又村右五郎 小林市次郎 
  佐藤豊太 村上万吉
  工藤惣吉 岩本米造 藤ノ亀太郎  長谷川与次郎 白石得乃助
向って左側
  大野慶三郎 大川原一美 
  浜本岩次 宮本松太郎
  矢羽場善助 朝里太郎 山口新八
  大橋大七 川岸米造


 神出杉雄が父寛から聞いた話によれば、明治44年に長都に入植した祖父は当初、田も畑もない鬱蒼とした雑木林で、それを切り開いて、まず住む小屋を建て、粘土で窯を造って炭を焼いていたという(※8)

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※8 神出杉雄 平成10(1998)年 「長都昔話-農村風景の一段面-」『千歳を知る 20周年記念誌』 48〜55頁




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