明治・大正の千歳を支えた薪炭業 ※画像をクリックすると拡大図が表示されます |
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| 大谷 敏三 総務部主幹 (市史編さん担当) |
1.江戸時代 2.官林の開放 3.山神の碑 4.泉 沢 5.学 田 6.炭焼きと学校 |
7.300万坪 8.戦 中 9.焼き子 10.搬 送 11.まとめ ※参考文献 |
はじめに |
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千歳市街から西方に約5`のところに千歳川の支流内別川がある。わずか2・5`程の清冽な流れの川である。水源では伏流してきた水が、毎分90dほどが音をたてて湧水している。水質が良く、水量が多いことから千歳市民の飲料水として利用されている。千歳市の水道事業のため合流点近くに堰が造られ、サケの遡上を見ることができなくなった。
沢に沿って幅2b程の林道が発見されたが、これは製炭材や薪炭の運搬のために造られたものであろう。それらの炭窯跡の数は、薪炭作業に従事した人々の存在を想起させるに充分なものであった。
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1.江戸時代 文末まで移動 ▼ |
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仙台藩の玉虫忠義が勇払から千歳を通ったのは、安政4(1857)年の9月6日であり、その記録『入北記』(※2)に、途中の今の植苗あたりに炭焼きが住んで、窯二か所ばかりがあったと記している。勇払勤番所や会所などの需要のためであったらしい。
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2.官林の開放 文末まで移動 ▼ |
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千歳で早くから木炭を消費していたことは想像されるが、記録としては、明治14年明治天皇ご巡幸の際、用意した木炭があった。
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3.「山神」の碑 文末まで移動 ▼ |
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長都神社境内に現存する「山神」の碑は、明治38年11月15日となっている。これは、長都地区に入っていた専業製炭者、その焼き子などの関係者が作業の安全を祈って建てたものである。この碑の台石には次の24人の名が刻まれ、当時の盛業を偲ばせる(写真‐1)。
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