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入植時には、木材は燃料と家屋建築用以外に利用の途がなく、耕地が作られる過程で森は次々に焼き払われた。開墾が目的であったから、巨木を伐採し、積み重ね焼却していった。
明治23年、「官有森林原野および産物処分規則」が設けられ、これは森林資源をもって事業にあたろうとするものに林産物の特売契約を認めたものだった。三井物産は、同25年には11万本の枕木を清国に輸出している(※19)。
その後、道内各地の鉄道の敷設、都市化に伴う建築材の需要がたかまり、枕木、角材、製材は年とともに産額を増加していった。
明治25年、室蘭‐岩見沢間に北海道炭鉱鉄道が開通すると、札幌本道は日を追って往来者は少なくなり、千歳村は裏街道となり衰微していった。
当時、安平村は道内の「木炭需要の約四割を占め、本道木炭業者の首位でその一翼を担っていた」。明治44年6、7月室蘭線早来付近での連日の大雨で炭窯が損傷し、例年の過半に達せず札幌・小樽の木炭相場が2倍の価格に大暴騰した(※20)。 第1次世界大戦中の国内工業の興隆とともに札幌、小樽、江別などの人口の増加により家庭暖房用の需要が高まり、千歳の木炭の生産量が増加していた。江別、小樽方面の輸送が水運や鉄道が整備され、千歳との物流量が増加していた。大正4〜6年にかけて木炭生産の最盛期を迎える(※21 図‐6)。
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図-6 千歳の薪炭生産額と炭窯数
※1 千歳外三村村費賦課額(明治41年)「炭窯割」の予算から
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明治41年の千歳外3村の村費賦課額には炭窯割の項目があり、1基につき1円20銭が賦課されている。薪炭業に携わる人は人口の19l、税金は村税の28lを占め、薪炭の占める割合はきわめて高かった(※22)。
大正6年には、専業炭焼き159戸、兼業143戸の合計302戸、窯数が302を数え、803名が従事している。木炭収入は35万3,131円である。この頃、農家戸数は659戸、農家収入の59万3,127円と比較すると、農家1戸当たりの収入を上回っていることを示している(※23)。
明治から大正にかけて、薪炭業は農業以外めぼしい産業のない千歳の主要な産業のひとつになった。
大正8年の千歳は、山林の面積は14万8,044反311歩で、村の面積の50l強を占めている。このうち7,323反108歩の民有地を除くと御用林などの官有林であった。
千歳において木炭産業が隆盛したのはこうした広大な森林が広がり、炭材としてナラ、カシワ、イタヤなどの広葉樹が豊富であったこと、官有林の売り払い等による大量の薪炭材の入手が可能であったことがあげられる。
千歳における炭焼きは、第1次世界大戦や札幌、小樽の人口増などの社会変化を背景に生産量を飛躍的に増加させ、大正6年には、生産数量271万8千貫と道内有数の生産を見ている。しかし、資源の乱材から薪炭材の減少、枯渇が顕在化し、村にしばしば村有林の薪炭材の払い下げを陳情するようになる。薪炭材の減少が生産量の減少につながり、やがて産業としての役割も小さくなる。
その後、北海道はストーブが普及し、薪、石炭、石油へと燃料需要が変化し、木炭需要は急速に低下していく。
昭和46年を最後に、『要覧ちとせ』の統計から木炭の生産高は姿を消した。最終統計は昭和45年12月末現在、1年間14万340`c(3万7,424貫)だった(※24)。
現在、千歳には炭窯は協和に塚辺毅所有の1基と幌加の明石一高所有の2基の計3基あるのみである。 (文中敬称略)
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| ※19 |
※3に同じ。 |
| ※20 |
厚真町 平成十(一九九八)年 「第二節 林業」『増補 厚真町史』 二二八〜二三二頁 |
| ※21 |
※17に同じ。 |
| ※22 |
千歳村 大正八(一九三三)年 『千歳村ノ状勢』 |
| ※23 |
※7に同じ。 |
| ※24 |
※9に同じ。 |
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