明治・大正の千歳を支えた薪炭業


※画像をクリックすると拡大図が表示されます

大谷 敏三
総務部主幹
(市史編さん担当)
1.江戸時代
2.官林の開放

山神の碑
4.泉 沢

学 田
6.炭焼きと学校
7.300万坪
8.戦 中
9.焼き子

10.搬 送
11.まとめ
※参考文献

                  



4.泉 沢

 文末まで移動 ▼

 明治45年3月、札幌の岡田幸三がママチ1009番地の官林払い下げをうけ、同年7月17日、これを千歳村の渡部寮蔵に譲った。この山を渡部栄蔵が大正3年に相続した。
 また、この頃と思われる時、厚真村の永田仙松が、その奥隣地の1005〜1008番地の山林を東京などの所有者から買い造林した。「胆振国」によると、永田の造林は約5年間で、これを渡部栄蔵と札幌の林覚蔵が買い、残木を製炭業者に切売りしたという。ママチ1005・1006番地は他に売られた。
 ママチ1007〜1009番地の山林は、現在の泉沢向陽台である。
 戦後、学校林として一部を植林したウソップサルン沢に、大正7年測量の5万分の1地形図では沢の左岸に2軒、下の両岸に1軒ずつ、計6軒の製炭者の家と思われる記号がある。
 当時このあたりから、後に北海道の教育長となった二本木實が通学していた。二本木の父は、本州から、製炭業のために来たらしく、その後、苫小牧の300万坪の方に移動した。
 昭和6年6月、江別町は、ママチ川上流のママチ1007番地、1008番地の山林を佐久間庸一から、ママチ1009番地の山林を渡部栄蔵から買収した。これは江別町が薪炭の供給を図ってのものであった。
 江別町はママチ川の町有林において、近藤伝蔵を現場主任として製炭の直営を図った。窯2基を築き、12年5月17日、製炭清式を行って焼きはじめたが、事業はうまく進まなかった。
 江別町は直営をやめ、薪炭材の欠乏から衰えはじめていた千歳などの製炭業者に、翌13年からは年々20〜40fの立木を売買契約し、代金は木炭で納めさせた。江別町有林では宮本宮七、荒川作次、北岡体一、戸田重義などが製炭を行った。
 ここを千歳市が江別市から買収したのは、昭和45年9月であった。
 荒川昭作、戸田義一などの人々が製炭を続けたが、泉沢開発が進んで製炭を中止した(※9)

▲ 文頭まで移動



※9 長見義三 昭和57(1982)年10月 「ただいま一基-千歳市内の炭がま‐」千歳市広報No.631号 市史つれづれ第22回






5.学 田

 文末まで移動 ▼

現在の北栄、北斗の沢を中心に学田があった。学田は、明治13・14年に開拓使がおこなった施策で、自治体に山林や海産干し場などを与え、土地や海産干場はその貸賃、山林は薪炭材の払い下げ代などで学校の経営に図らせた。昭和11年作製の「千歳村有林施業要領」に、旧北海少年院裏を含み国道36号線の両側に広がる169・37fの山林図があり「学田団地」と記されている(※10 図-4)。

図-4 学田団地昭和53年
広報ちとせ10月号「市史つれづれ」より

学田の恵庭寄り隣地、千歳村718番地の原野約194町歩は、明治40年、小樽区入船町80番地丹原金五郎から、横浜市尾上町3丁目27番地の田沼太右衛門が買いとっている。河野常吉の「胆振国」によると、丹原は払い下げ代金を支払えずに売ったとある。田沼は枕木として立木を売り、後、大正10年9月、その残木をも売った。買い手は更に、立木のまま売り、それを買った者が製炭を行った。
 「胆振国」によれば、大正の初めころには、山林所有者は林地の立木を1万坪くらいに切り売りするようになった。1万坪が約500〜600円、木の値が次第にあがり最高で1,000円以上にもなった。製炭業は千歳村の経済に活気を与えていたが、原木がなくなると専業者の多くは他の適地を求めて転出していった。
 大正8年7月調整の「千歳村ノ状勢」などによれば、大正初め頃の木炭の生産高、価格(表‐1)と、製炭窯、戸数、人口は次のとおりであり(表‐2)、大正7年には310基の炭窯があった。

大正4年 大正5年 大正6年
生産高 2,574,000貫 2,637,000貫 2,718,000貫
価 格 90,090円 118,655円 271,800円
表1 木炭の生産高と価格

大正4年 大正5年 大正6年 大正7年
専  業 76 68 204 91 71 222 159 131 422 159 130
兼  業 210 193 521 202 194 573 143 137 381 151 137
286 261 725 293 265 795 302 268 803 310 267
表2 木炭の窯数、戸数、人口の推移


 この頃、大正8〜9年に、中川種次郎も、学田の約40町歩に、窯を7〜8基ほどもって製炭を経営した。苫小牧の300万坪が開放された大正6年頃、北栄の村有林である学田の立木が払い下げられ、北岡吉太郎は大正12年9月から同10月まで、ここに窯4基を築いて製炭に従事した。ほかに熊次郎の兄である竹内弥四郎も入っていた。この学田は全くの原始林であった。学田の次の谷(ポロコツ)の方に木滑の山があったが、明治30年頃に伐られたらしく、この二次林でも炭が焼かれていた。北岡吉太郎は、つぎに大正15年(昭和元年)から昭和3年まで、この学田と国道の間にあった美唄の伊藤冬治の山林36町歩を炭に焼いた。学田の立木は、幾度か薪炭材として払い下げられたが、昭和11年以後何故か学田の文字は見られない。21年には、単なる地番字千歳746、管理方法は『共同薪炭備林』とある。 学田の増減については、昭和17年に旧北海少年設立に際して一部が寄贈された。戦後の昭和22年から24年に一部が自作農創設特別措置法により国に買収された。ついで昭和28年暮、それまで1年間貸付していた旧学田の一部は保安隊方面地方建設部に買収されている(※11)

▲ 文頭まで移動



※10 長見義三 昭和53(1978)年10月 「学田団地‐千歳村教育所を育てるために-」千歳市広報No.583号 市史つれづれ第6回
※11 ※10に同じ






6.炭焼きと学校

 文末まで移動 ▼

製炭者の悩みの一つは、市街から離れた山中に住むことが多く、日常の買い物をはじめ病気治療、児童の通学などであった。ユーマイ沢において、製炭の最盛期に、双子の新生児をつぎつぎに死なせ、その子らの母親がその後を追って病死するという痛ましい出来事があった。
 ユーマイ沢の水源から100b程行った盆地を、千歳さけます孵化場から恵庭市街に通ずるいわゆる「ふ化場道路」が通じている。この道の西側に、この地区の製炭に入った炭焼きの子弟のための教育施設が設けられた。
 この学校で学んだ竹内熊次郎やその他の人々の記憶によると、炭焼きの戸数は40〜50戸で、家々は5町から10町ほど離れて暮らしていた。
 昭憲皇太后が亡くなった頃(大正3年)で、千歳小学校の分教場的施設で室が一つ、先生は千歳小学校籍の35〜36歳の杉本叶という人であった。
 生徒は30人くらいで学校はそこに5〜6年あった。学校には釣瓶井戸があり、太い木の校門が終戦の頃まで残っていた。学校のそばには内山という雑貨店があった(図-5)。

図-5 ふ化場道路略図
平成2年広報ちとせ10月号「シリーズ道」より

 ここの運動場に千歳小学校から児童が遠足していったこともある。この部落の神社は学校の裏の西の丘にあった。祭りの時は角力があり、一力という角力名で若い頃の初代市長山崎友吉もここで相撲をとったものである(※12)。この学校がいつ設置されたかについては、明治34年近唐簡易教育所の堀常衛門校長の息子昌治によってもたらされた次の文書によって、大正3年1月と判明した。


念証
 大正三年二月十九日附ニテ千歳村蘭越教授所ヨリ幣館二掛 図納入スベク御用有之候モ同教授所ハ本年一月ヨリ新設ニシテ未タ学校印出来無之候為納入御用命ノ証トシテ千歳郡近唐教育所印ヲ押捺致候モ代金其他一切ノ切ノ取引要件二関シテハ近唐教育所並管轄千歳戸長役場二決シテ御迷惑相懸ヶ不申候二付後日ノ為念証一札差入レ仍テ如件
   大正三年二月二十四日
   東京都浅草区千束町三丁目
          百二十七番地
     合弁会社 徳道館店員
           円道 良雄
   堀常衛門殿


 この念書は、東京の徳道館という名の店が、近唐教育所の堀校長宛に書いたもので、大正3年2月19日に蘭越教授所に掛図を納入したが、同年1月の新設校のため学校印がなく、代印として近唐教育所の学校印を借用した。だが、代金その他取引用件に関して近唐教育所に決して迷惑をかけないとするものであった(※13)
 この千歳尋常小学校分教場「蘭越教授所」は、竹内熊次郎の記憶によると大正6年前後で廃校になったようである。
 大正10年頃、熊次郎は内別川上流のふじやの山70町歩の立木を買って製炭した。
 大正12年頃、現在の飛行場の所にも70町歩ほどの山を持ち、そこに炭窯を6〜7基築いて仕事を始めようとして召集された。あとを兄が引き受けたが、ほとんど炭を焼かぬうちに、海軍に買収された。


▲ 文頭まで移動



※12 川越一雄 昭和63(1988)年 「第一特科団見学」『千歳を知る 10周年記念誌』 125〜127頁
※13 千歳民報社 昭和54(1979)年6月25日 「幻の小学校やっと日の目」




←前のページ  次のページ→

このウィンドウを閉じます