美笛‐千歳鉱山専用軌道の一考察

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守屋 憲治
千歳市史編集委員会専門部員
1.千歳鉱山の概要
2.専用軌道と軌間
3.軌道の配線経路
4.ガソリン機関車と蒸気機関車
5.軌道の廃止
6.廃線調査(まとめとして)
参考・引用文献
 




はじめに

 千歳市街から西方約55kmに金山があった。今となっては知る人は少ない。千歳鉱山における叙述も小中学校の記念誌を除くとないに等しい。
 美笛(びふえ)という地名は、昭和25年5月、千歳町の美笛支所設置と時を同じくして千歳の字名になった。それまでは苗別川から鉱山までを烏柵舞(うさくまい)と呼んでいたことから鉱山地区のみの人口統計もない。
 千歳鉱山周辺の地名はアイヌ語でピプイと呼ばれていた。漢字では比不井・美笛とあてられた。今でも字名美笛のほか比不井、比不井口、南比不井という地名が残っている。また、千歳鉱山株式会社(「千歳金山」)が創設されるまで金山の名称は「美笛金山」と呼ばれていた。
 『増補千歳市史』を編纂した長見義三は『ちとせ地名散歩』でピプイを「小石原・だらけの・川」と解した。また、苫小牧の堀江敏夫は「石のころがっている岬」とした。しかし、いずれもその確証を現場に示すことができないとしている。さらに、ヤチブキ(エゾノリュウキンカ)が多いところと解するものもあるとしている。
 千歳鉱山に関する史料のなかでも特に美笛川(※-1)河口までの間の鉱石運搬を担った鉄道施設、千歳鉱業所坑外専用軌道(以下「千歳鉱山軌道」)に関しては、全くといってよいほどに史料が残されていない。千歳鉱山軌道は、軌道敷設からわずか16年後の昭和27年に廃止、軌道が撤去された。明治41年から昭和26年までの44年間運行した王子製紙苫小牧工場専用鉄道=王子軽便鉄道(以下「王子山線」)とは比べようもないほどに史料がない。
 千歳鉱山関係者(以下「鉱山関係者」)は、湖上輸送が昭和40年まで続いたことから、ガソリン機関車の存在は知っていても乗車経験のある人は極端に数が少なく、本稿が必要とする知識経験を持つ人はいなかった。
 昭和28年から58年までの間、千歳鉱業所に勤務のかたわら千歳鉱山労働組合委員長、千歳地区労議長を務めた森寿次雄は、休山式の3日前、昭和61年2月21日から7月18日までの間、地元千歳民報紙上に『千歳鉱山−50年をかえりみて』を16回連載している。多くの貴重な写真とともに、記録された内容は「千歳鉱山外史」といえるものだが、千歳鉱山軌道に関しては次の記述だけである。

 その交通の便でありますが、鉱山から、さがる時は、ガソリンカーという機動車に引かれた。今のケーブルカーのような小さな客車とは、名ばかりの乗り物にのってせまい軌道の上を走って、終点からであれば6,500m位で、美笛の河口につき白銀丸という19tの鉄船にのって、生活必需品または精鉱等を運搬する船「ハシケ」を引かなければ一時間で東湖畔につきます。(句読点はママ)

 鉄道関連図書では、北海道大学演習林業務資料である小熊米雄の『日本における森林鉄道用蒸気機関車について』に、鉱山坑外軌道であるにもかかわらず戦時下の休山中、美笛御料林産材輸送に使用されたことから森林鉄道扱いとなった千歳鉱山軌道蒸気機関車の車体解説がある。
 ほかには資料的な記述が見出せない。




1.千歳鉱山の概要

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 千歳鉱山は美笛川河口から約9km上流に位置していた。昭和8年、大野直澄がモシルンピプイ(鳴尾沢)(※‐1)の上流で金の露頭を発見したことに始まる。9年に国内最大、世界でも有数の航空機メーカーであった中島飛行機(※‐2)グループの中島商事株式会社に売却。本格的な操業は、11年10月1日に千歳鉱山株式会社が創立されてから以降になる。
 昭和16年12月8日に始まった対米英戦である東アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)は翌年6月のミッドウェー海戦後、日本にとって緒戦の快進撃から少しずつ不利な形勢になりつつあった。18年4月、労働力の軍需部門移管など国家の金政策の転換によって戦時に不要不急の金山は休山を余儀なくされたが、優良金山であった千歳と鴻之舞だけが道内では保坑となり、現状を維持するとされた。しかし、粘土質の多い坑内はいたるところで崩落、荒廃のため放棄の状態で敗戦を迎えたという。
 戦後は昭和23年から出鉱を再開した。
 昭和25年に三菱金属鉱業株式会社の傘下となり、翌年には浮遊選鉱場が完成した。三菱金属鉱業は48年に三菱金属と社名を変更、平成2年には三菱鉱業セメントと合併し、商号を三菱マテリアルとした。
 金価格の低迷、物価高騰のコストアップ、資源枯渇が見込まれることなどから40年代末には経営不振に陥り合理化が実施され、従業員、生産量ともに激減、その後も下降をたどった。このような状況の中、千歳鉱山は職住分離の方針を打ち出した。
 昭和52年10月30日を以って千歳市立鉱山小中学校が閉校、11月15日に千歳市街真々地の雇用促進住宅に職住分離が完了、30日には美笛支所が閉鎖された。それから9年後の61年2月24日、休山式が行われ千歳鉱山は操業を停止した。
 千歳鉱山は53年間に金約20tと銀約90tを産出した。これは、道内においては鴻之舞に次ぐものだった。
 半世紀に及ぶ千歳鉱山史初期の発展時における金産出量と人口など発展の様子は、浅田正裕著『北海道金鉱山史研究』中「第8章千歳金山 第2節戦前の千歳金山」によれば次のようになる。

 産金量は次のように増大した。すなわち、創業以来、休山(昭和18年)までについてみると、昭和11年397.5kg、12年615.7kg、13年811.7kgと増大し、それ以降、昭和16年まで若干の減少を見ながらも750kg以上を維持し、昭和17年の金937.1kgと戦前の最高水準に達している。これは、同年の北海道産出量の12.9%を占め、鴻之舞、手稲に次いで第3位の水準であった。
 また、従業員は昭和10年6月末の215名から4年後の14年6月には1,200名へと急増しており、最盛期には2,000名を数えたと思われる。
 このような状況は、突如として山中に一大鉱山街を現出させた。昭和14年6月現在で450戸、3,700名が住み、(略)。さらに200戸の社宅(略)建設中であった。したがって最盛期の頃の人口は、おそらく5,000名を超えていたであろう。
 小学校についていえば、昭和11年2月、烏柵舞尋常高等小学校千歳鉱山特別教授所として設置され(略)。2学級、児童28名であった。翌12年(略)10月、千歳鉱山尋常高等小学校として独立した。その後、従業員増を反映して教室が増築され、昭和17年には12学級、児童数は548名までに達している。(漢数字はママ)

 千歳鉱山街の人口は昭和14年に3,700人、最盛期の17年に5,000人という数値は千歳全村人口のおおよそ35%前後にあたり一大過密地域であった。昭和17年は海軍航空隊の千歳進出による人口増から町制を施行する年であるが、千歳鉱山国民学校の学級・児童数は、市街地校であった千歳国民学校の10学級502人を抜いて村内随一の規模だった。
 戦後における千歳鉱山の従業員と産金量のピークと終焉は、昭和44年の352人、46、47年の885kgで、休山時の従業員は30人程度だった。また、児童数は33年の7学級309人がピーク、閉校時は3学級24人の複式になっていた。



※‐1  『増補千歳市史』、長見義三著『ちとせ地名散歩』を参考に地名解をすると、モシルンピプイ(中島・に入る・美笛川)は和名を鳴尾沢という。最初に金の露頭が発見された川である。ソウオンピプイ(滝・に入る・美笛川)は、弁天の滝(美笛の滝)と呼ばれる名瀑がある。ソウオンピプイとともに美笛川になるもう1本の支流にアイヌ名はなく和名で福神沢と呼ぶ。国土地理院発行の50,000分の1地形図では、「モシルン」ピプイは「モンルウン」美笛川と転記ミスされ、ソウオンピプイの名になっている。モシルンピプイは美笛川と誤記されている。(図‐1参照)
 福神沢と美笛川本流は、昭和50年以降に千歳川と名を変えられたが、認知度は極めて低い。『要覧ちとせ』、環境省支笏湖自然保護官事務所監修ガイドにおいて支笏湖以西は美笛川で統一され、さらに国土交通省河川局の千歳川資料でも「千歳川は、湖水面積77k㎡の支笏湖を水源にもつ石狩川の一支川である」と記述されている。名を変える必然性はどこにあったのだろうか。アイヌ語の由来と歴史を無視した管理優先の結果、美笛川は支流のみの河川、カルデラ湖シコットウ(大きな・凹地(千歳川の)・湖→支笏湖)は千歳川の一部となり、釈然としない。
 本稿では道民・市民に親しまれている「美笛川」を用いる。
※‐2  中島飛行機の創設者は中島知久平。三菱をしのぐ航空機メーカーだった。敗戦による解体後、富士重工(スバル)、プリンス自動車工業(スカイラインのメーカー、昭和41年日産に吸収)などに技術が引き継がれ、戦後日本の自動車産業とロケット・航空機産業の発展に大きく寄与した。


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2.専用軌道と軌間

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 一般的に専用軌道とは、運輸業に用いない軌道をさす。軌道法に基づく軌道は道路に敷設することが原則である。線路構造は、通常の鉄道と同様に、砕石(バラスト)を敷き、枕木に軌条を固定する構造が多い。
 千歳鉱山軌道の軌条写真を見ると、道床は舞園あたりで120cm程度と高い。あまり砕石が確認できない。軌条は10kgであったという。千歳鉱山軌道が撤去されてからの史料であるが、昭和28年に新しく森林鉄道建設規定が定められている。これによると森林軌道は最小曲線半径が10m以上、勾配が50パーミル(千分率)、軌条が9kgで2級、森林鉄道のそれは30m以上、40パーミル、10〜22kgで1級とし、区分を明確にした。1、2級は土木軌道、それ以外を作業軌道と言い表した。千歳鉱山軌道は、この等級区分と最大勾配25パーミルを勘案すると1級土木軌道に相当すると思われる。札幌地方帝室林野局札幌支局が敷設した芦別森林鉄道の蒸気機関車が戦時中の一時期、美笛御料林の産材搬出のため入線していたこともあり森林鉄道並の規格だったのだろうと推測できる。

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写真‐1 川口から鉱山をめざす
ガソリン機関車

 千歳鉱山軌道の軌間は762mmで軽便鉄道、森林鉄道、鉱山坑外鉄道としては一般的なものだった。国鉄室蘭本線を挟んで王子製紙苫小牧工場の北側、原木を吊り上げる巨大な走行クレーンがあった貯木場と第4発電所のある上千歳・支笏湖畔の間を走っていた王子山線(※‐3)と同じ規格である。さらに北海道では、戦後に簡易軌道と称された殖民軌道が同様の規格であった。
 鉄道は軌間が狭いほど半径の小さな曲線が作りやすく、建設費を低廉に抑えることができる。

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写真‐2 蒸気機関車「雨宮21号」

 北海道内の鉄道軌間については次のとおりである。
 国鉄・JR会社在来線、札幌市電が軌間1,067mmである。これらは狭軌であるが、国内では762mmを一般的にナロー(76)ゲージ(Narrow Gauge=狭軌)と呼ぶ。762mmは、蒸気機関車「雨宮21号」と6tディーゼル機関車が走る網走管内遠軽の丸瀬布いこいの森保存鉄道のほか、野幌森林公園「北海道開拓の村」の馬車鉄道でも見ることができる。このほかの軌間として函館市電の1,372mmがある。ちなみに、平成27年に北斗の渡島大野まで先行開業する北海道新幹線は1,435mmで標準軌となる(遊覧列車の類については一部を省いた)。



※‐3

 苫小牧軽便鉄道(現・日高線)を浜線、王子軽便鉄道を山線と呼んだ。王子山線は明治41年8月12日に運転を開始した。発電所工事建設資材・製紙原木輸送用の軽便鉄道である。山線本線は苫小牧工場貯木場‐千歳郡烏柵舞・湖畔間で昭和26年5月10日に廃止となった。本線駅は、苫小牧‐六哩(マイル)‐十哩‐十二哩‐十三哩‐分岐点(‐滝ノ上‐湖畔)‐水溜(みずため)‐牛の沢‐上千歳である。現在、王子製紙苫小牧工場正門通りと駅前通りの交点にあるアカシア公園には、以前、東京王子の紙の博物館にあった小樽・橋本鉄工所製サドルタンク・テンダ式4号蒸気機関車と貴賓車に、王子工営で新造したテンダを増結して展示保存されている。
 西裕之著『全国森林鉄道』に王子山線が王子製紙専用鉄道として記述がある。その中に「また、支笏湖の西側にある千歳鉱山も王子製紙系で、同じく鉄道があり、森林鉄道線との乗り入れがあったという」と記述されているが、千歳鉱山は王子製紙(三井)系列ではなく、千歳鉱山軌道は他線(森林鉄道)との連絡もなかった。
 余談ではあるが、執筆者が小学生の頃、本線起点‐苫小牧坊主山間の延長線軌道が貯木場西端・佐羽内沼(さばないぬま)東方に残っていた。また、苫小牧駅から高丘までの軌道跡を確認することは難しい。



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